園長だより令和8年1月号【子を思う親の愛の深さ!】
子を思う親の愛の深さ!
~野口英世の母「野口シカ」に学ぶ~
新年明けましておめでとうございます。今年が、子どもたちやご家族にとりましてこれまで以上に素敵な年になりますように心からお祈りいたします。今回は、親の愛について感銘した手紙がありましたので、紹介したいと思います。
野口英世の母「野口シカ」は、字を書けませんでした。しかし、息子に一目会いたいという一心で囲炉裏の灰をノート代わりに指で文字を書く練習をし、息子に手紙を書いたと言われています。
おまイの。しせ(出世)にわ。みなたまけ(驚き)ました。わたくしもよろこんでをりまする。 なかたのかんのんさまに。さまにねん(毎年)。よこもり(夜籠り)を。いたしました。 べん京なぼでも(いくらしても)きりがない。いぼし。ほわこまりおりますか。(烏帽子村からのお金の催促には困ってしまいます。)おまいか。きたならば。もうしわけかてきましよ。はるになるト。みなほかいドに。いてしまいます。わたしも。こころぼそくありまする。ドかはやく。きてくだされ。かねを。もろた。こトたれにもきかせません。それをきかせるトみなのまれて。しまいます。はやくきてくたされ。はやくきてくたされ。ははやくきてくたされ。。はやくきてくたされ。いしよ(一生)のたのみて。ありまする。にしむいてわ。おかみ(拝み)。ひかしむいてわおかみ。しております。きたむいてわ。おかみおります。みなみたむいてわおかんておりまする。ついたちにわしおたち(塩断ち)をしております。ゐ少さま(栄昌様)=僧侶の名前 に。ついたちにわおかんでもろておりまする。なにおわすれても。これわすれません。さんし(写真)おみるト。いただいておのまする。はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。これのへんちまちをりまする。ねてもねむれません。
現代語に訳すと、「お前の出世には、皆たまげました。わたくしも喜んでをりまする。中田の観音様に、毎年(まいねん)、夜籠(よこも)りをいたしました。勉強なんぼでも切りがない。烏帽子(近所の地名。ここは、烏帽子という村からのお金の催促のこと)には困りをりますが、お前が来たならば、申し訳ができましょう。春になると、みな北海道に行ってしまいます。わたしも、心細くありまする。どうか早く来てくだされ。金を貰うたこと、誰にも聞かせません。それを聞かせると、みな飲まれてしまひます。早く来てくだされ。早く来てくだされ。早く来てくだされ。早く来てくだされ。一生の頼みでありまする。西さ向いては拝み、東さ向いては拝みしております。北さ向いては拝みおります。南さ向いては拝んでおりまする。一日(ついたち)には、塩断ちをしてをります。栄昌様(隣家の鵜浦栄昌。天台宗の修験者)に一日(ついたち)には拝んでもろておりまする。なにを忘れても、これ忘れません。写真を見ると、戴いておりまする。早く来てくだされ。いつ来ると教えてくだされ。これの返事待ちておりまする。寝ても眠られません。」となるようです。思いに溢れた文面から、親の愛が伝わってきます。
母シカは幼いころ、文字を覚えはしましたが、その後ほとんど文字を書く機会がありませんでした。後に英世は、母が字が書けるとは知らなかったと語っています。「はやくきてくたされ はやくきてくたされ いしよのたのみてありまする」(早く帰って来てください。早く帰って来てください。一生のお願いです。)と、長い年月会うことができない英世に、一目でも会いたいという気持ちを切々と綴っています。手紙を受け取った英世は、1915(大正4)年に15年ぶりに帰国し、母との再会を果たしました。東京や関西の講演会の時には、母や恩師と一緒に旅行をしました。
母シカは英世とともに過ごす時間を「まるでおとぎの国にいるようだ」と語ったと言われています。
どんなに時代が変わっても、どんな社会になったとしても
親子の関係は不変だと思います。親子だからこそ、ついついわがままを言ったり、対立したりすることもあると思いますが、「親子は親子」です。特に、乳幼児期は一つ一つの仕草や言動が癒やしの対象であったり、逆に不安の材料になったりすることもありますが、子どもたちの成長は何にも代え難い喜びだと思います。私たちにとってもみんな特別な存在であり、素敵な存在でもあります。こんな子どもたちが巣立っていく世の中が一人一人の子どもたちに内在する可能性を発揮できる、希望に満ちた年になることを願ってやみません。
園長 中村 洋志






